2011年10月29日(土)
写真という表現手段 [日々の徒然]
写真機には、目の前の現実を写し取るコピー機としての使い方と、表現したい絵を制作する絵筆としての使い方と、大きく分けて二つの使い方があるように思う。
前者の究極の作例が、目の前の被写体をそのまま写して出す報道写真であり、後者の究極の作例が、被写体や光、影、色を作者のイメージに合わせて精緻に作り込むアート写真である。
そして、その中間に、様々な写真表現がある。
例えば、スタジオで撮るポートレート写真は後者に近いし、ライブや祭りなどのイベント写真などは前者に近い。
同じように目の前の現実を撮っていながら、イメージ通りの光や影が現れるのを待ち続ける風景写真は後者に近いと思うし、なにものかを表現するために一瞬のタイミングや通り過ぎる光景を写し取るストリートスナップの手法は前者に近い。
また、森山大道のように、コピー機的な撮り方をして現像やプリントで絵筆のように表現する人もいるし、HCBのように、作り込まない目の前の被写体をコピー機的に撮っていながら、画面構成自体が写実画を思わせるような人もいる。蜷川実花の写真の色彩はアートな領域だと思うが、表現したいことが異なれば、窪塚洋介を撮った写真のようにストリートスナップ的な手法でも撮っている。
コピー機的な手法も絵筆的な手法も、写真家が「これをやろう」と思えば、写真機は道具として応えてくれる。そのための技法は、それこそ非常に沢山の選択肢があるのだろう。その辺は、まだまだ全然詳しくないので、ここでは感覚論的な話に留める。
残る問題は、写真機を使って何を表現したいのか、ということだ。
コピーか、絵筆か、その中間か。
私の場合、自身の撮影スタイルから「目の前を通り過ぎる 『Passing Sight 』を写し取る」というコンセプトを掲げてみたのは良いけれど、「で?」という問いに対する答えは、なかなか出ない。
現実コピー写真を表現手段として採用し、どんな写真を撮り、どんな波動で相手の感情になにものかを引き起こすのか。それは、これまでに撮った写真、これから撮る写真で探してしていくことになるんだろうな。
Posted by Julian at 12時27分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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